初夢どころか全然眠れない

よくある話と言われてしまったらその通りなんだけれど、恐怖に付きまとわれて眠れない夜がある。それは、さっきまで見ていたホラー映画を思い出してとか、明日の仕事のことが不安でとか、そういう類のものではなくて、もっと精神の底から漏れ出してくるような根源的な恐怖のこと。
「いまこうしてこの部屋で横になっているのは正解なの?」
そんな、どうしようもなくどうしようもない問いが頭の中を這いずり回って、あっちをちくちくこっちをちくちく。もう止めてくれと思って、試しに深呼吸なんかしてみても、自分の呼吸音さえうっとおしく眠りを妨げる。
そんな夜に自分を助けてくれるものは何処にもなくて、むしろそれが無いからこうしてテキストなんて打っているのかもしれないけれど、ただただ途方に暮れることしか許されない。そんな思考回路に一度入り込んでしまうと、あとはただ決められたルートを進むアトラクションのように、自然とこんな考えに辿り着く。
「これは罰に違いない」
罰は罪とセットになっているので、単品で語ることはできない。だから本来ならその罪について書くべきなんだろうけれど、こんなところで懺悔したところで何の意味もないし、「ああ、彼は心を病んでいるんだな」とかなんとか察した人に距離を置かれるのがオチなので、いまはただ、キーボードを打つことだけに集中しようと思う。いつか、本当に心を許した人にその罪を洗いざらい告白して、受け入れてもらえたら、それはとても素敵なことかもしれない。いまはまだ想像することすらできないのだけれど、そういうエンディングがたった一つだけ組み込まれているかもしれない。そうであってほしい。

最近よく文章を書くからか、言葉について考えることが増えた。これまでの自分は、「言葉は言葉だろう」と思っていたのだけれど、ひょっとすると、もっと適切な表現をすることができるかもしれない、なんてことを企んでいる。
例えば、言葉はアプリケーションかもしれない。人の持っている機能、食べるとか歩くとか、そういう機能の中に言葉はあって、それを少しずつアップデートしながら利用している。泣くとか眠るは最初からプリインストールされていたように思うから、きっと一番最初に外部からインストールしたのが「日本語」だと思う。そう考えると、小学生からやっている学問や芸術、スポーツよりもずっと長い間それは自分の中にあって、もうほとんど「使っている」という意識は融けてなくなる。弦楽器を弾く時に何も考えずに「C」や「F」のコードを押さえているように、やっぱり何も考えずに「ありがとう」や「ごめんなさい」を使っている。
それでも、少し複雑な処理をしようとすると、考える必要が出てくる。「この表現は伝わるだろうか」「もっと強い語感が好まれるだろうか」「半数以上の人が誤解するだろうな」とか、そんな感じだ。そういうことに頭を使うのは少し楽しい。でも、それには自分の自由にできるという条件が重要だと思う。もし、「小学生の9割が笑う文章を提出しなさい」なんて言われたら、きっと困り果ててしまうだろうから。いまはとにかく伝わる人にだけ伝わるように単語や文体を選んでいるので、随分楽だ。例えばいまこれを読んでいる人は、少なくとも活字に免疫のある人のはずなので、余計な説明をいくらか省くことができる。万人向けの情報メディアだとそれができないので、やたら長くて丁寧な言い回しの、大根の皮みたいな薄い記事が量産されることになるのだけれど、自分のサイトにはそのようなものを置きたいとは思わないし、ちょっと眠くなってきたから眠るおやすみ。

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