「YOASOBIの音が良くない」って話があって。
発端になったのはおそらくこのツイート。
アルバム通してちゃんと聴いた。この気恥ずかしさは嫌いじゃないんだけど、このビートの単調さと音色・音圧のショボさが世間で許容されてるのはちょっと信じたがたい。少なくとも家のスピーカーで聴く音楽じゃないですね
THE BOOK by YOASOBI https://t.co/3by0Aqozun
— 宇野維正 (@uno_kore) January 18, 2021
まあ、言わんとしていることは理解できる。
生憎、我が家にはちゃんとしたスピーカーというのは無いし、それを活かせる耳も持ち合わせていないので、実際の所どの程度クオリティが低いのかというのは判断も説明もできない。
でも、YOASOBIの作曲を担当しているAyaseが「夜に駆ける」を作った環境というのを見た限り、おそらく上のツイートの主張は概ね正しい。これでは流石に色々と無理があるだろう。
信じられるか…?これが紅白にも出てYouTube2億回再生達成した楽曲の制作環境なんだぜ…? pic.twitter.com/Yw4n56TKQy
— 店長P@新曲公開 (@Tencyou_P) January 10, 2021
一方で、「だから何なのか」とも感じる。
音色や音圧のクオリティが低いと誰が困るのか。
クオリティが低い音楽がランキング1位だと何かマズいのか。
逆に、「この作品はクオリティが高いのに伸びない」というクリエイターやファンの悩みというのも頻繁に耳にする。
これは音楽、漫画、映像、ゲームなど様々なジャンルで。
つまり、クオリティが低いのに伸びたり、クオリティが高いのに伸びなかったりするわけだけれど、どうしてそんなチグハグな現象が起こるのか……というのを、これを機にごっそりと深堀りしてみようと思う。基本的に作り手に向けた話になる。
まず、そもそも「伸びる」というのはどういう状態を言うのか。
それは、多くの人に届いているということ。つまり、多くの人が「これを誰かに知らせたい」と動いた結果と言えるだろう。
じゃあ、何故人々はそれを他人に知らせたかったのか。
これは人間、というか生物の本能に関わってくる話で、多くの生物は情報を仲間と共有する仕組みを持っている。
「近くに食べ物がある」のような”嬉しい情報の共有”と、「外敵がいる」みたいな”嫌な情報の共有”とがあって、そういう情報をやり取りすることによって、群れ全体がハッピーになるように動いている。コンテンツが伸びるのは、その内の”嬉しい情報の共有”によるものだ。
”嫌な情報の共有”でも数字は増えるかもしれないが、それはここで言う「伸びる」とは少し違っていて、バズよりも炎上寄りの現象に繋がる。よってこの記事では扱わない。
では、”嬉しい情報の共有”にはどんな種類があるのか。
「笑える」「泣ける」「可愛い」「仰天」「貴重」「便利」
まあ色々と挙げられるが、これらに対する共感度が高ければ高いほど情報は広くに拡散される。
例えば「笑える」なら、100人中80人が笑えるコンテンツは沢山拡散されてバズるだろう。しかし、100人中2人しか笑えないものなら、あまり伸びることはない。
ここまでは前置きで、本題に入る。
じゃあ、「クオリティが高い」というのは誰が嬉しいのか。
基本的に、そのコンテンツに精通している人間以外は、クオリティの高さというのは判断することができない。
殆どの人類にとっては、そのクオリティによって何を表現するのかの方が圧倒的に重要で、”クオリティが高いこと自体”で嬉しいのは、同業者やマニアだけだ。
「クオリティが高いのに伸びない」の原因はここにあって、作り手本人やその周りにいるような人々にとってはクオリティが高いことは嬉しいので、「これは当然シェアされるべきだろう」などと思ってしまう。しかし、その外側にいる多くの人々にとってはそれは嬉しさに直結しない、あるいは全く関係ないことなので、その中身にしか目がいかない。
これはクリエイターの間では有名な話なんだけれど、「完璧な陰影をつけた1セント硬貨」という言葉がある。
CGアニメのピクサーが発祥で、「あんまり細かいところに拘り過ぎても良いことないぜ」みたいな意味で使われる。
ピクサーでは必要以上に丁寧な仕事を、「完璧な陰影をつけた1セント硬貨」と呼ぶらしい。非の打ち所のない1セント硬貨の3Dモデルを作ることに熱中しても、映画全体の品質が高まるとは限らない。むしろ、貴重なリソースを浪費しているだけかもしれない。仕事は丁寧なほうがいいが、過剰ではダメだ。
— Rootport◆月~金19:30YouTube配信してるよ (@rootport) September 30, 2016
例えば音楽で言うと、ひとりの人間が作詞作曲から最終的なマスタリングまでする時に、「ある1音の音色に拘って長時間直し続ける」みたいな作業が「完璧な陰影をつけた1セント硬貨」に当てはまる。その時間があったらメロディーをもう1パターン作ったり、歌詞を推敲したりできたはずで、そっちを優先した方がいいよねっていう話。
じゃあクオリティには拘らない方が良いのか?というと、これはケースバイケースだと思う。
例えば、コンテストなどでプロによって評価される場合。これに関してはクオリティの高さこそが重要であり、もし受賞できれば宣伝に使えて口コミで伸びるということもあるので、その作業は無駄にならないかもしれない。
あるいは、極端に高いクオリティそのものを作品の売りにしてメタ的に面白いものを作る場合。「10年掛けて描いた1枚のイラスト」というのがあったら、見てみたいような気がする。
さて、そろそろ話がとっ散らかってきたのでまとめに入る。
もしクリエイターが自分のコンテンツを伸ばしたいと思ったのなら、「その作品によって誰が嬉しいのか」というのをよく考えないといけない。その人数が多ければ伸びやすいし、少なければ伸びづらい。
いま流行っているYOASOBIとか、鬼滅の刃とか、Among Usは、多くの人々が嬉しかった結果流行っているのであって、それはクオリティの高さによるものではない。もっと高品質なのに伸びていないコンテンツはいくらでもある。
ちなみにYOASOBIに関しては、「チープな音作りをした結果、逆に当たったのでは」みたいな話も聞くんだけれど、個人的にはあまり同意できない。
多分、最高の環境で最高の品質を目指して作っても当たっていたと思う。
何故なら、単純に曲が良くて、歌が良くて、売り方が上手かったので。
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