昨日は六本木まで行って「新海誠展」を見てきた。2度目だ。
どうして2回行ったのかと言うと、1回じゃ全部見られなかったから。
そこには彼のデビュー作「ほしのこえ」から、昨年大ヒットした最新作「君の名は。」まで、計6本の映画で使われた原画や内部資料が並んでいた。その数、約300点。これはまさに彼の作る映像ばりの情報量なわけで、秋葉原UDXとか松屋銀座でやるような原画展とは文字通り桁が違う。だから最初に行った時は、初日で混んでいたというのもあって、完全に酔った。それで一旦諦めて帰って、今回でやっと全部に目を通せた。
俺が新海監督を知ったのは中学生くらいの時に流行った「秒速」からなんだけど、展示を見ていて改めて気付くことも多々あった。細かく書こうと思えば餓死するまで書き続けられるけど、まあとにかく良かった。
今回ひとつだけ掻い摘んで話したいのは、2011年の「星を追う子ども」について。この映画はゴリゴリの異世界ファンタジー作品で、剣や魔法やモンスターが登場する。そして、俺はこの作品が好きではない。
理由を大雑把に説明すると、「これを観るならジブリを観るよ」と思ってしまうから。それくらい、この映画はジブリジブリしている。それでいて当然、ジブリには及んでいない。
新海監督は子供の頃から宮崎駿作品のファンだったらしいので、そういう作品を作ってみたかったのだろう。しかしそのジャンルでは自分の持ち味を活かすことはできず、世間的にもあまり評価はされなかった。彼はどうしてあんな映画を作ったんだろう。
そんなことを昨日までは思っていた。
あの映画は、彼にとって絶対に必要だった。
それを上手く言葉にして説明することは難しくて、どうやって例えたらわかりやすいかなと考えていた。ずばっと一言にまとめることができるはずなのに、中々喉元から出てきてくれない。
それを吐き出すことができたのは、家に帰って、夕飯を食べて、少し眠って、その後だらだらと動画を見ている時だった。
あるアーティストが新曲のPVを公開していた。そして、その動画のコメントには批判的な意見が多く見られた。
「前のほうが良かった」
「◯◯すればもっと流行るのに」
「俺の求めているものと違う」
確かにその曲は、これまでの彼の作品とはガラッと変わったものになっていた。
俺は別に彼のファンではないんだけど、いや、ファンではないからこそなのか、こんな言葉が浮かんだ。
そんなの本人が分かってないわけないじゃん。
ああ、それだ。
誰よりも長い時間ひたすらその作品のことを考えている超有能な人間が、そんな単純なことを思い付かないわけがない。作っている本人は絶対に、一番よく、理解しているのだ。
それでも何かを変えるとか、挑戦するとか、その必要があって、実行したのだ。それは傍から見たら「迷走」かもしれないが、「計画的な迷走」なのだ。
将棋や囲碁などのゲームで、悪手というのがあって、打った側が損をするような一手のことを言う。しかしこれには、「一見悪手に見えるが実は最善手」という場合がある。
それは、打った者が、見ている者よりもずっと先の未来まで読んでいる時に現れる。
新海監督はより多くの人に自分の作品を届ける必要があった。つまり、大衆向けの作品を作るということだ。そして、あえて「宮崎駿のコピー」という手を打った。絵で言うところの「模写」だ。一番売れている監督の特徴的なところを全部、自分なりに模写した。そして短編の「言の葉の庭」を挟んで、次の長編映画「君の名は。」で、見事に当てた。
彼は自身のスキルと、ヒットする作品との距離を測って、綿密なチューニングをしていたのだ。そして、目一杯弓を引いて、放った。
「星を追う子ども」は、悪手に見える最善手だった。「新海誠展」で過去の作品たちをひとつのパッケージとして総復習した今なら、俺にも見える。そんな気がする。
俺も時々誰かに「◯◯すればいいのに」と言ってしまうことがある。そして、自分がそれを言われることも、よくある。
誰しもが最善手を狙っているわけではないだろうけど、きっと大抵の場合は、余計なお世話だ。
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